意識と肉体は異なった2つの自分自身【生き方は星空が教えてくれる】


おはようございます!

 

<今朝のフォーラムソラ語録>

『意識と肉体は異なった2つの自分自身』

生き方は星空が教えてくれる(木内鶴彦著)より

<立ち読みコーナー>
●トックン、トックンと脈打っていた拍動がクッと止まったのが自分でもはっきりとわかりました。「あっ、心臓が止まった」 その後「息ができない」と感じているのですが、痛みも苦しみもありません。母の顔が私に近づき、体を揺さぶりながら「死んじやった!」といっているのもはっぎりと聞いていました。
(中略)
●「俺はここにいるのに、どうしてべッドの上にも俺がいるんだ!」
目に映った情景が理解できず、私は完全にパニック状態に陥っていました。自分自身の意識が連続してあるため、自分は生きているのだと思っていたのです。
●しかし、呼べど叫べど父は私の声に反応しません。耳元で叫んでみようと、父に近づいていくと、突然、私の視線がべッドに横たわる自分の体をとらえました。辺りを見ようとしても視線が動きません。おかしいな、と思ったとき、先ほどまでは見えなかった鼻っ柱が視界の中にありました。
●そこでやっと気づきました。私は父親の肉体に入り込み、父の目を通して見ていたのです。このまま父の体にいてはいけない、そう思った私はもう一度「俺は生きている」といって父の肉体から出ました。
●そうしている間に、看護婦さんが病室に駆け込んできました。看護婦さんは父に病室の外に出るようにというと、すぐにべッドの上の私の体にまたがり、心臓マッサージと人工呼扱を始めます。他の看護婦さんも次々と駆けつけ、酸素ボンべをつけたりさまざまな処置をしていきます。
●私はそれらを何とも不思議な気持ちで見つめていたのです。(P83-85)

<わたしの読書メモ>
 木内さんは、三途の川のあたりの旅から帰ったわけですが、そのタイミングでは体がキチンと機能していました。しかし、危篤状態であるわけですから、先ほどまでの自由が全て失われる現実と再度向き合う時の辛さは、言葉に言い表せないものなのでしょう。
 死を覚悟し、せめて病名だけでも確認したい。その思いが体を動かしましたが、しかしそれとは裏腹についに心臓が停止してしまいました。
 そして、ここが肉体から意識への「個」のスイッチング・ポイントです。息が出来なくても苦しくない。横たわる自分を見つめる家族が見える。さらには、父の体に取り着いてしまう意識としての自分自身。
 木内さんの場合、「このままではいけない」と思いお父さんから抜け出たから良かったものの、現生への執着が強すぎると、このまま居座ってしまうこともあるそうです。
 そんな事故を防ぐためにも、脳プログラムは心地よい臨死体験を用意し、死に対する恐怖を取り除き、安心感を与えるようになっているのではないでしょうか。
 さて、フォーラムソラ・定例会で、このシーンについて木内さんに質問を投げかけてみました。
お父さんの体の中で「俺は生きている!」と叫んだ時、お父さんはどんな感じだったのか?と聞いてみました。すると、お父さんは頭のどこかで「俺は生きている」という木内さんの声を聞いたのだそうです。
 その後、自分の「肉体」に処置が施される様子を自分の「意識」で見ていた訳ですが、これは肉体と精神(意識)が別のものであることを物語っています。
 私たちは日頃、物理的(肉体)な面だけで物事を捉えようとしていますが、精神的(意識)な面をもっと意識し、判断や行動を取るべきではないでしょうか?
 そうすれば、「もっと相手の立場になったり、他の生き物や地球環境の事を思いやった言動を選択できる。」と私は確信しています。

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